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執筆者の写真ミウラ

春はあけぼの…②12年目の3.11

更新日:2023年3月13日

昨日の朝5時過ぎ、ドドドという地響きで飛び起きました。

3月11日でしたから、ヒヤッとしました。

わが家には、揺れに敏感なオカメインコがいます。

夜中の地震はとりわけパニックになるので、私はすぐに鳥かごに向かいます。

大きめの羽根が5本も抜ける惨事でしたが、大きな怪我はなくひと安心しました。


東日本大震災から12年。ちょうど干支がひと回りしました。

早朝の揺れで12年前のできごとをリアルに思い出し、決して忘れてはいけないとの気持ちを新たにしました。


皆さんの12年前は、どこで揺れを経験しましたか? おそらくとても不安な体験をした方も少なくないと思います。


私は横浜でヨガのレッスンを受けた後、遅いランチのため地下1階のパスタの店にいました。

すぐに火災報知器が鳴り、屋外に出るようにとのアナウンス。あわてて外に出ると、周りの高層ビルがしなるように揺れ、足元の小さな川の水面は見たことがないほどうねっていました。立ってはいられますが、めまいのような気持ち悪い感覚でした。

電車はすべて止まり、帰宅困難者となりましたが、幸い仲間と一緒でしたし、ヨガスタジオに戻って待機することができました。

横浜駅はどこも人であふれ、階段に座り込んで疲労困憊している方も多かったです。

深夜に東横線が動き出し、日付が変わる頃にようやく帰宅できました。

後日、自宅まで延々と歩いた方々や、知らない地域の公民館で一夜を明かした方の話を聞き、自分は恵まれていたのだと思っています。

テレビもなく、携帯もつながらなかったため、帰宅後、初めて津波の報道を見て慄然としたのでした。


その後は、何かできることはないか、そればかり考えていました。

ヨガはつながりを大切にしたり、カルマヨガといって奉仕の行為を大切にする哲学がありますから、このような時には行動が早かったように思います。

一週間後には支援物資を集め、届けるためのネットワークができ上っていました。

ツイッターを駆使して必要な物資を集め、仕分け梱包して被災地に送る作業のボランティアを始めていました。


現地に出向いて復興の手伝いをする災害ボランティアも動き始めます。

さすがに50代のおばさんが行っても迷惑をかけるだけだと思い、こればかりは遠慮していました。

5月のゴールデンウイークを過ぎた頃から人手不足になり、ヨガ仲間から猫の手も借りたいほどだと知らされ、5月中旬に一人夜行バスに乗りました。


行先は宮城県の亘理町。

ここはとてもしっかりした支援センターができていて、慣れているリーダーの元、7~8名のチーム体制で各家に向かい、頼まれた仕事をこなすシステムができあがっていました。

私のチームは初日の朝から泥をスコップで掻き出し、ねこ(一輪の台車)で運ぶという仕事です。庭の広い、とても立派な旧家の庭が泥だらけになっていました。

結構ハードな作業ですが、30分に一度10分間の休憩が入りますから、何とか迷惑かけずにこなせました。


2日目と3日目は、別のお宅です。お洒落な外観のお家でした。

この頃はすでに自衛隊によって道路を塞いでいた瓦礫は撤去され、各家の敷地一画に山のように積まれているような状況。田んぼには瓦礫や泥が残っていて、悪臭がしていました。

私たちの仕事は、家の中の片付けです。2階部分は無事でしたが、1階天井のすぐ下まで津波が押し寄せ、他の家の瓦礫や木が入り込んでいるような状態でした。

われわれのミッションは、1階の基礎部分だけ残し、乾かしてリフォームするための片付け作業と内装の解体作業です。

瓦礫運びと床下のヘドロの掻き出し作業が主な仕事でしたが、慣れてきたので、内装の解体作業まで手伝うことになりました。

バールを使うのも初めて、脚立に乗っての仕事も初めての経験です。

建てて数年しか経っていないきれいな壁をバールで解体していく作業は、たまたまわが家に似た内装の家でもあったことから、胸の痛む辛い仕事でした。


「手伝いたい」という思いだけで、年齢も性別もなく、全国さまざまな場所から集まった方々との交流は温かいものでした。

「私は年寄りだから」とか言ってられる状況でない場所は、ある意味差別とか偏見とか、遠慮や世代間ギャップとかもなく、誰をも受け入れてくれます。

ここでの5日間の経験は、今から考えると他では代えがたいものだったと思います。


翌春、娘が被災地で仕事することになりました。

場所は岩手県釜石市。生活準備の手伝いのつもりで、私も最初は同行しました。

被災1年後の港町は倒壊した建物の片付けの段階で、閑散としていました。

後にラグビーのワールドカップ会場になった鵜住居地区は、町全体がすべて流され、最も被害の大きかった地域です。私は一人バスで向かい、まるで焼野原になったような所を1時間以上歩き回り、津波の恐ろしさを目に焼き付けたのでした。


その旅の帰り、二日間仕事したお宅周辺がどうなったか気になっていたので、亘理町にも立ち寄りました。


瓦礫の山はなくなり、田んぼや畑の瓦礫も片付いて、少し整備されつつありました。

場所を思い出しながら行ってみると、そのお宅のリフォームはまだ手付かずの状態でしたが、思ってもみない嬉しいメッセージがあったのです。

1階の窓に大きな紙が貼ってありました。

「ありがとう。皆さまのおかげでここまでになりました」



私と同じくらいの年齢のご夫妻は、当時はまだ仮設暮らしだと聞きました。おそらく今は無事にリフォームが済んでいることでしょう。きれいになったあの素敵なリビングや和室で、大きくなったお孫さんとの日常生活が戻っておられればと願っております。


3.11がなければ出会わなかったであろう人々、できなかったであろう体験に思いを馳せた一日になりました。出会ったたくさんの人々に力をもらいました。心より感謝です。


※見出しの写真は自宅から撮った今朝(3/12 5:46)の有明の月です。

空を見上げると、われわれも自然の一部なのだと感じられます。

本文の写真は2012年4月に再訪した亘理町で撮った写真。









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